『思考と行動における言語』からコトバと思考の真髄を学ぶ
![]() | 思考と行動における言語 S.I.ハヤカワ 大久保 忠利 岩波書店 1985-02-25 |
言葉が人の思考と行動にどのように作用するかを説いた一冊。言葉は人々の考えを作づくり、人々の感じかたを導き、人々の意志と行動とを方向づける。
言語は進歩を可能にする
読み書きができるということは、人類の仕事に参加し、またそれから利益を受けることを学ぶことである。ネコやチンパンジーは我々の知る限りでは、知恵や知識や環境制御の能力を一代から次の世代へと積み重ねることは出来ない。言語は、人が前代の人々よりも豊かな生活を送る機会を我々に与えるだけではなく、それがいかなる小さなものにせよ、我々自身の貢献により人類の業績の総和に何かを加える機会を与える。人間は自分の知識を増やすために、決して自分の経験だけに頼っているものではない。未開文化の段階でも、人は隣人・友人・縁者の経験を利用することができる。それを人々は言語によって伝える。人は、前の人が踏んだ誤った道を探検し前人の誤りを繰り返す代わりに、前の人の後を継いで仕事を続けることができる。
言葉は社会的なもの
原始人の警戒の叫びから、最新の科学論文にいたるまで、言語は社会的なものである。文化的・知的協力は人間生活の大原則である。大切なことは、社会が機能するために必要な努力の調整はすべて、必ず言語によって達成されるということであり、それでなければ決して達成されないことである。この本の基礎にある過程は、言語の使用を通じての広い種内的協力が人間生存の基礎的機構であるということである。それと並行する仮説は、しばしばそうであるように言語の使用が不一致と衝突を作りあるいは激化させた場合には、話し手と聞き手、どれか一方または両方に言語的な欠陥がある、というとである。
言葉はモノではない
言葉を通して達する世界である言語的世界と、自分の経験で知りえる世界である外存的世界は異なる。言語的世界と外存的世界との関係は、地図とそれが代表する現地との関係に似ている。子どもが青年に達し、経験の拡大と共に自分の周囲に見出す外存的世界とかなり密接に対応する言語的世界を頭に収めていれば、かれらは自分で見出した事に驚いたり傷ついたりする危険が比較的少なくてすむ。かれは人生への備えができている。
人が誤った地図を手に入れる経路は、人から与えられる、もしくは、与えられた正しい地図を自分で読み違える。
報告、推論、断定
知識を交換するための基礎的な記号的活動は、われわれが見いたり・聞いたり・感知したりしたことの報告である。・報告…実証もしくは反証可能な叙述
・推論…知られていることを基礎に、知られていないことについてなされる叙述
・断定…述べている出来事、人物について自分の賛成・反対を言い表す叙述
早く断定を出す結果は、一時的盲目状態を招く。我々が推論・断定をするかしないかが問題なのではなく、我々の下す推論や断定に我々自身が気づいていないことが問題である。
事実に即した報告は、むき出しの断定よりも人を動かす
支持者でも反対者でもない書き手は、特別な文学上の効果を求める時以外は、色付けを避ける。色付けを避けることは、公正で、公平なことであるばかりではなく、さらに重要なことだが、経験の現地に対するよい地図を作るためでもある。強い先入観をもった人は、よい地図を作ることが出来ない。なぜならば、彼らは、敵をただ敵としか見られないし、友はただ友としか見られないからである。書くことに本物の技能を持っている人は、同一の事物を多方面から見ることが出来る。
正確に述べられた事実は、結果においてむき出しの断定よりもいっそう感化的であることが多い。報告をさらに低いレベルの抽象に持ってくれば、-被害者の顔の血潮・裂けた衣類・ちぎられた腕の付け根から露出している所などを描写すれば、いっそう感化的になる。
読者に「恐るべき事故だった」と語るかわりに、読者にそれを自分で言わせることが出来る。読者は、いわば、自分自身の結論を引出すことを委されることによってそのコミュニケーションに参加させられる。従って、巧みな書き手というのは、読み手を望みのように動かすに違いない事実を選択する技術に特に熟練した人である。
外存的意味と内存的意味
発言が外存的意味を持つ場合※1には、議論はかたがつき一致が得られる。発言が内存的意味しか持たず、外存的意味を持たない場合※2は、議論は果てしなく続く。このような議論は衝突が残るだけである。※1 この部屋は幅が15フィートある
※2 天使たちが、夜、私の寝台を見守っている
日常生活の言語
言語を理解し、また使用する能力を増すためには、語の情報的内包に対する識別力を磨くだけではなく、言語の感化的要素を見抜く力を磨かなくてはならない。これは社会経験を通じ、諸種の状況においていろいろの種類の人に接し、また文学を研究することによって得られる。
科学は協力を可能にし、芸術は喜んで協力するように仕向ける
科学的コミュニケーションにより、我々は互いに情報を交換し、人類の環境を集団的にい管理できるようになっている。感化的コミュニケーションにより、人類は互いに理解し、お互いに獣的な懐疑はやめ、我々と他の同胞に間に存在する深い共通性を次第に理解する。科学は我々に協力を可能にし、芸術は我々の共感性を増し、我々が喜んで協力するように仕向ける。
ある種の文学は抗毒剤として作用する
もし文学が精神の健康を保つための道具なら、多くの正気とは言えぬ天才の作品は不健康なものとして捨ててしまうべきだ。しかし、極度に苦しんだ人々、ドストエフスキー、ダン、シュリーなどが自分たちの状況を包み込むためにくふうした記号的戦略はきわめて貴重なものである。彼らは自分たちの苦悩に対抗する強力な武器を自分で調合したのだ。そして、彼らの薬は我々を悩ませると同様の苦しみを包み込むのに役立つだけでなく、我々が将来苦しまないようにその抗毒剤となってくれる。
抽象のハシゴ
偉大な政治的指導者は高いレベルと低いレベルの抽象との相互作用を持つ人間である。各州や各国が永遠に感謝を捧げる政治的指導者というのは、同時に高いレベルの目標(自由、国民の団結、正義)と、低いレベルの目標(ジャガイモの高い価格、高い賃金、土壌保全)を達成する人間である。面白い著作家、実のある話して、正確な思想家、分別のある個人というものは、抽象のハシゴのあらゆる段階において活動し、素早くなめらかにそして秩序ある仕方で活動出来る人である。
牝牛1は牝牛2ではない
分類の用語は、その類の各個が共通に持つものを示す。一方で、見出し番号は落とされた各個の特性を我々に思い出させる。牝牛1は牝牛2ではない。ユダヤ人1はユダヤ人2ではない。この法則を記憶していれば、抽象レベルの混同を防ぐことが出来る。
多値的な考え方が協力のために必要
会話から一番利益を得るための重要な方法は、二値的な考え方ではなく、多値的な考え方の体系的適用を行う事である。すなわち叙述が真か偽であると過程するかわりに、0から10%までの間の真理値を持つと考えることである。もし相手もこちらのナンセンスの山から針ほどの意味を探すほど辛抱づよい人なら、相手もこちらの話から何かを学ぶだろう。結局、文明生活全体は、みんなが快く教えると同時に快く学ぶということにかかっている。反応を延滞し、「もう少し話してくれませんか」と言うことができ、反応する前に耳を傾けるlわれわれは反応を示す前にその当否を確かめてみる必要がある。多値的な考え方は民主的な話し合いと人類の協力のために必要である。
成熟した精神は「知らないことがある」ことを知っている
成熟した精神は、言葉は何についてもすべてを言いつくせるものではないことを知っており、そこで不確かさに適応する。たとえば、自動車を運転している時、次に何が起こるかはわからない、いかに何度も同じ道をと売ろうと、決して二度とまったく同じ交通状況には出会わない。しかし熟達した運転者はどんな道でも、しかも高速で、恐怖も神経過敏もなしに走る。運転者として、かれは不確かさに適応している──予期しないパンクや突然の生涯に──しかも心に不安は感じていない。同様に、知的に成熟した人についても「すべてを知っている」というわけではない。しかも、このことがかれを不安にはしない。それはかれが知っているからだ。人生で唯一の保障とは、内部から来る動的な保証、すなわち、精神の無限の柔軟さから来る保証──無限値の考え方から来る保証である、と。
新しく発見する体系はさらに多くの学ぶべきことがあることを示す
情諸的に未成熟な人の熱情と成熟した人の熱情とには大きな開きがある。未成熟な人は、新しい知的体系や哲学で自分の欲求に何らかの形でっ答えるものを発見すると、それを無批判に採用し、かれらが身に付けた言葉の公式を際限なく繰り返す。そして、それ以上のことが発見されなければならないという非難には腹を立てる。一方、成熟した読者は新しい発見や哲学に喜び、感激するが、それを実際に試そうとする。見かけほどの普遍性を持っているか?多くの異なった歴史や文脈の中でも真であり得るか?修正・訂正は必要とするか?かれらはその新しく発見した体系は、自分が力を得たという感覚が強まるにつれて、かれはまたいかにさらに多くの学ぶことがあるかを痛感するようになる。
新しい哲学的・科学的理論体系がすぐれていればいるほど、そしてそれが広く有用であればあるほど、それだけ新しい問題が起こる。困難な問題に対してダーウィンが『種の起源』で与えた答えは、生物学の探求を止めはしなかった。それどころか生物学を、さらに新しい探究に向かわせている。心理学の諸問題へフロイトが与えた答えは心理学の発展を止めはしないで、まったく新しい研究の領域を開いた。
自分についての地図の正確さは人によって異なる
もし、ある人が自分についてかなり正確な地図を作ればわれわれは、かれは「自分自身を知っている」と言う。すなわち、自分の力・限界・情諸の力・情諸的欲求を正確に評価している、と。心理学者のカール・R・ロジャーズは、このわれわれが自身について作る地図を自己概念と呼んだ。地図は現地ではないのと同様に、人の自己概念は自分自身ではない。地図は現地のすべてを現すものではない。人の自己概念が実際にその人自身について省略している部分は大きい。我々は決して自身を完全に知ることはない。
正確な自己概念が、実のある行動と健全な決断を生む
実際、ソクラテスの有名な「汝自身を知れ」という訓戒に暗示されているように、われわれが他の人々や外部の出来事を賢明に評価できるか否かは、我々が自分自身を賢明に評価できるかどうかに懸かるところが大きい。我々の自己概念がより現実的であればあるほど、実のある行動、健全な決断の確立が高まる。自分自身について現実的でない人は、原則として他人との関係においても現実的でありえない。精神科医がしばしば示しているように、我々はすべて、何かをする深い理由を、他人に隠す傾きがある。そして、自身の行為を正当化するために大なり小なり手のこんだ合理化を行う。自己を知ることは、もちろん、具合の悪いこともある。この情諸的苦境に陥らないようにどう防ぐか?
精神科医やカウンセラーの助力のもっとも重要な一つの面は、かれらは決してわれわれにいかなる断定もくださない、という事実である。カウンセラーは「私はただのガソリンスタンドの従業員にすぎなく、くだらない人間なのだ」という断定を「私はガソリンスタンドの従業員である」という報告に変える手助けをしてくれる。カウンセラーの受容的な態度に影響されて、依頼者も自身を受け入れやすくなる。
経験から何を見出すか知らなければ、出来事は何も意味を持たない
文学は、我々が前に気が付かなかった事実に注意を向けさせるだけではなく、経験しなかったような感情をも起こさせることが出来る。新しい感情と新しい事実は、そこで、我々の内在的考え方をくつがえし、我々の盲目性は徐久に取り除かれる。われわれの神経系はきわめて不完全で、我々はわれわれの訓練と関心の枠内でしか物事を見られない。我々の関心が限られていれば、我々はきわめて少ししか見えない。経験それ自体はきわめて不完全な教師である。経験は我々が経験していることがどんなものであるかを教えない。物事はただ起こるだけである。もし我々が経験の中に何かを見出すべきかを知らなければ、出来事は我々にとって何の意味も持たない。
多くの人は経験それ自体に重きをおく。けれど、学ぶことが出来なければ、外に出て積んだ経験は何にも役にたたない。我々が経験に意味を与えることが出来るのは、正に概念を通じてである。教育課程の大きな部分は、概念を学び、生活のさまざまな局面へ概念を如何に絵起用するかを学ぶことから成り立っている。
不信念体系へも心を開く
心理学的には、人は二つの課題に取り組んでいる。1)人は世界についてもっと多くのことを知ろうとする。2)人は世界から自分を守ろうとする、特に混乱させられるような情報から。人が信じていることがらをその人の「信念体系」と呼び、信じていないことがらを「不信念体系」と呼ぶ。もしあなたが安定したまともな人であるなら、自分自身の信念体系を享受するだけでなく、不信念体系についての情報に対しても心を開くであろう。不信念体系についての情報に心を開くということが、開かれた心を持つということになる。しかし、あなたがおびえた状態になればなるほど、両者の区別をつけることが一層難しくなる。気に入らないことを全て自分の不信念体系として見なしてしまう。その人が信じていない各種の物事との相違を区別できないということが、閉ざされた心を特徴づける。