反劇的人間

反劇的人間反劇的人間 (1979年)
安部 公房
中央公論社 1979-03

毒の正体

そういえば以前、安部公房の『砂の女』を読んだときに僕はこんなことを思ったんだ。

「安部公房に限らず作家という職業は、実社会とは少し離れた場所から俯瞰的に社会を見ることが出来る職業だ。言い換えれば、作家は当事者としてではなく第三者として社会と関わっているということになる。そのせいなのか、そういった作家が書く作品の多くは、社会に当事者として関わっている僕らに毒のように作用することが多い気がする。 」

なぜ毒を感じるのか?その時、「毒の正体」に関しての謎は全く分からなかったけれど、本書を読んでその謎が解けた。ヒントは安部公房の次の台詞にある。

たしかに植民地で育ったこと、とくに日本主義というんでしょうか、そういうものがいちばん強いときに植民地で育ったので、日本を外から相対化して見る習慣がいっそうできました。・・・とくにかく概念をそのまま信じない。いちおう経験的な裏付がないと信じられないということです。おかげで疑い深くなった。・・・疑い深くなって、たとえばある社会に所属しているということ、日本なら日本という国家に所属しているということがどういう意味か、それを疑う習慣がとてもつきました。(p90)

僕等が毒を感じるとき、それは、文学から得る新しい概念と、既に自分の中にある概念の間に相違を感じたときなのだ。当然、そんなとき僕等は、今まで見ていたものや信じていたものが壊れていく感覚に陥る。その感覚が「毒の正体」なのだ。つまり、「毒を感じるとき」とは暗黙に「今までの価値観であったり、社会そのものに対して疑い深くなったとき」でもある。今振り返れば、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだときのあのどうしようもない感情は、今までの人生に対する(そして、これからの人生に対する)「疑い」から生じたものだったのだと思う。


心を打つ文学、ヒットラーの演技力

その他、印象に残ったくだりを2つ抜き出してみる。

フランツ・カフカの登場人物というのは非常に悲劇的ですけれども、ぜんぜん個性的ではないですね。あれにもし個性があったら、かえって非常につまならくなるのじゃないですか。・・・登場人物が非常に個性的で、類型でないものを持っている場合と、逆にきわめて類型的である場合と、そのあいだの緊張関係が非常に大事で、あまり個性的であっても人の心を打たないし、かといってあまり類型的であっても駄目です。一見類型的に見えるもののなかに、実は非常に深い個性的なものがあったり、一見非常に個性的に見えるものが、実は非常に類型的なものにすぎないという発見をしたり、その逆転劇みたいなものが、近代以降の芸術の特徴じゃないかと思うのです。(p112)

ぼくはドイツ側が撮ったナチスの、とくに軍隊のフィルムを見るのが好きです。なぜ好きかって、人間のあれほど絶望的な姿は、そうめったには見られない。・・・勝っているときのドイツ軍の、殻をかぶったような固さは人間のいちばん絶望的なものだと思います。あれは何度見ても見飽きない。人間の醜さのようんだ。・・・ヒットラーの演説の格好なんか、ほんとに絶望的だなあ。その絶望感を味わうためにまた見てしまう。・・・ヒットラーの演技力が抜群だからです。・・・何度見ても彼の熱狂的な眼と、演説するときの催眠術でもかけるようなタイミングの取り方なんかを見ていると、人間というものの弱さと暗さを解剖して見せられるような気がしてくる。(p116)

とにかく安部公房という人物が、文学というもの、人間というもの、さらには世界というものをどう捉えているのかが詳しく書かれた本であったように思う。小説家志望の方は是非読んでみてください。

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テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

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