ハイエク―自由のラディカリズムと現代

4480855572ハイエク―自由のラディカリズムと現代
エイモン バトラー 鹿島 信吾 清水 元
筑摩書房 1991-04

20世紀は、その前半に世界を制するかのように見えた中央集権的な経済システムが、次第に力を失い、自律分散的な新しいシステムに変わる時代だった。そんな時代に生きる僕らだから中央権力の限界を説くハイエクから学ぶことは多い。

中央権力によって、組織され指令されている社会はすべて、中央権力が所有している知識の量によって明らかに限界が画せられる。・・・同じく重要なことは、そのような社会は複雑さという点でも限界がある。つまり、そのような社会の複雑さは、中央権力が工夫したり、コントロールしたりできる程度に限られてしまうからである。いかなる知性も自分より複雑なものを説明したり、コントロールしたりできないのであるから、中央の指令を受けている社会の複雑性には当然確固とした上限がある。・・・頭脳が確かめたり処理したりできるものよりずっと多くの事実から形成されている非常に複雑な社会秩序は、ルールの体系の進化の結果としてのみ成立しうるのであって、計画的設計の結果としてもたらされるわけではないことになる。どのように行動したらよいかということに関する知識が、中央権力ではなく無数の個人によって所有されているような社会こそ、より多くの情報をつくり活用することができる。(p36)

"報酬"とは、自分が生み出した成果物の対価として支払われるものではなく、その成果物の他者にとっての価値を反映して支払われるものである。

市場システムの働きは、他者の欲するものを第三者の欲求をできるだけ妨げることなく、適切な時に適切な場所で生産することに依存している。その生産に対する市場システムからの報酬は、努力や個人的功績を評価した「公正」な報酬などに基づくものではないし、市場に生産物をもたらすために製造業者がどれほどの投資をしたかにも必ずしも関係がない。・・・市場から与えられる報酬は、商品やそれを供給する個人の努力の、他者にとっての価値を反映するものである。だからこそそれは、他者を益する将来の行動の誘引となるのである。

関連のある諸事実の知識が多くの人々のあいだに分散しているシステムにおいては、価格がさまざまの人々の別々の行動を調整する役割を果たすことができる。

マルクスのような一部の思想家は、生産物の価値が投下された労働量によて決定されるという「労働価値説」の立場にたっている。しかし、それは真実に反する。生産者にどれほどの労働と熟練とを投入する価値があるかを知らせるものこそ価格であり、そのことを理解できなければ、市場の機能を理解することはできない。しかも市場が提供する報酬は、他者に与えられた実質的な利益を反映するものだから、生産者が適時に適切な品物を供給できたのが、熟練によったのか、幸運によったのかには関係がない。大抵の場合、おそらく両方が混在しえいるであろう。それゆえ、特定の結果をもたらすように計画されたのではない社会では、報酬全体のうち特定個人が享受する取り分については、決して予測することができないのである。しかし、ハイエクは各人の取り分は、できるかぎり大きなものになると主張してる。価格と競争は資源を最も効率的な利用に振り向けるから、全体に占める各個人の分け前は、できるかぎり低いコストで獲得されることになるからである。

市場がわれわれに提供する報酬は、労働量に比例して決まるものではなく、他者に与えられた実質的な利益を反映するもの。適時に適切な成果物を市場に届けるために生産者は市場の将来を予測して動かなくてならない。そして、結果的に享受できる報酬のうち、どれだけが努力によるものだったのか、どれだけが幸運によるものなのか、それを知るすべは今のところない。

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      機会損失とは、仮にある行動を取っていたら生まれたであろう利益を享受できない損失のことを言う。

      自分だけに与えられた、自分でしか歩めない道を歩んでいきたいと思う。
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