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吉田松陰から学ぶ「狂」の精神『世に棲む日々』(1)

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)
世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)司馬 遼太郎

文藝春秋 2003-03-10
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1853年のペリー来航依頼、江戸時代の日本は、攘夷か開国か勤王か佐幕かをめぐって激しい政治闘争が繰り広げられることになる。この時期の長州藩は激しい骨肉の抗争を経て倒幕への主動力となる。その思想の原点に立つのが本著の主人公である吉田松陰と高杉晋作。前半1~2巻が松陰、後半の3~4巻が晋作にフォーカスされている。

今回は、前半の吉田松陰について考えさせられた部分をメモ。

超スパルタ早期教育を施された吉田松陰の幼少時代

松陰は叔父の玉木文之進に主として藩学であった山鹿流兵学を5歳のときから教授された。この玉木文之進が強烈な先生であった。文之進は「かたちは、心である」と書物を両手を伸ばし朗読させるなど形式を重んじた。また、勉強中に顔を掻くなどした松陰をなぐり倒し気絶させるなど、私心を無くすことを徹底させた。その極端さは一種の狂気で、松陰は高年、「あんなひどい目にあってよく死ななかった」と洩らしたことがあったという。

玉木文之進は、兵学のほか、経書や歴史、馬術、剣術など教えたが、最も力を入れたのが、侍とは何か、ということを幼い松陰に叩きこむことだった。文之進によれば、侍の定義は公のためにつくすものである、という以外にないという持説であり、極端に私情を排すことを重んじた。学問を学ぶということは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのために読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である、というのである。このことに関して文之進は「痒みは私。掻くことは私の満足。それをゆるせば長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」と言っている。

肉体を殴りつけることで恐怖させ、そういう人間の本能の情を幼いうちからつみとるか封じ込んでしまおうというのが文之進のやり方であった。彼は「侍は作るものだ。生まれるものではない」とも考えていた。とにかく、松陰は5歳から18歳までのあいだ、このような家庭教師から教育を受けた。(余談だが、乃木希典も玉木文之進の教育を受けている。)

なお、松陰は8歳で藩校である明倫館の教授見習になり、9歳から実際に藩校で講義をした。10歳では藩主の御前で講義をした。これは異例であり、藩内で評判が高くなった少年を藩主毛利敬親が呼んだとされている。その後松陰は19歳になって独立の師範となる。

歴史の書で己の士気を激発させる

松陰は孔子の語録である論語がもっている老人くささが、自分の肌に合わないと思っていた。松陰は孔子よりも100年後に生まれた自ら孔子の後継者と称する孟子のほうがはるかに好きであった。孟子の劇的な行動性、雄弁、論理性、そして「千万人ともといへども我行かん」という気概を松陰は愛した。孟子は革命の書になりうる。

また、松陰は佐久間象山という師との会話でこう言っている。「私は論語を今日にあっては火急の書とは思いませぬ。私はそれより歴史の書を尊びます。歴史を読み、智者、豪傑、英雄、仁人の事歴をつぶさにみることによって、己の士気を激発しようと思っております」

行動家でありながら温然たること婦人のごとし

松陰の最初の弟子となる金子重之助は、松陰と対面するまで、松陰が矯激な行動かである以上、両眼のぎょろついた壮士然とした快男子かと思っていた。しかし実際に会ってみると意外にも婦人のようであり、やさしく声まで温雅でしなかやかであった。現実の松陰は婦人のようであったのだ。

そのことについて松陰は以下のように語っている。「婦人。そうですか。私はそのような自分であることを望み、そのように自分を教育しているのです。人生において大事をなさんとする者は、和気がなければなりませぬ。温然たること、婦人、好女のごとし」。おだやかな人柄をもつことにおいてはじめて気魄を養うことが出来る。金子重太郎は息を詰めるようにして聞いていたが、やがてこの言葉に感動して泣いたという。

また久坂玄瑞や高杉晋作の入校の際に見せたやり取りでは、松陰という人物があらゆる人間に対して恐ろしいばかりの優しさをもった人物で、しかもその優しさと聡明さをもって人の長所を神のような正確さで見抜き、在獄何十年という囚人すら人変わりをさせてしまったという人物であることが分かる。

松陰が残した「狂気」から学ぶ、信念と情熱の大切さ

思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構である。松陰は思想家であった。彼は日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、完成させ、彼自身もその虚構のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。これほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。

虚構を実現するには、狂信狂態の徒が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるためにはそれを神体のようにかつぎあげてわめき回る物狂いの徒が必要であり、松陰の弟子では久坂玄瑞がそういう体質を持っていた。一方で高杉晋作は現実化であった。

松陰の理論は、山県太華(明倫館の館長)をはじめとする当時の学者からは馬鹿にされた。法制上も現実認識から見ても、松陰の理論は間違っていたからだ。が、松陰にすれば現実を語っているのではなく、思想という虚構を語っている。学者の意見がいかに正しくとも事実認識の合理精神からは革命は生まれない。

松陰は晩年、「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」と、ついに思想の本質を悟るにいたった。思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世を動かす実体になりうることを松陰は知った。

その松陰思想維持のための狂気というものを、松陰門下の連中は受け継いだ。「狂」いう字は、クレイジーという意味ではなく、本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」を指す。松蔭は生徒に、「『狂』を持て」と言う。それで山縣有朋は自分の名前を変えて山縣狂介とする。高杉晋作は東洋の一狂生(普通は一書生と言う)と名乗る。そうやって生徒たちは松蔭の言う「狂」という字を、心の底で受け止めていった。

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